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人材育成の観点から「経営」「教育」「メディア」について考えます。

部活にスパルタ教育は必要か

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確か6月初旬だったと思う。その日は朝からどんよりとした雲が太陽の光を遮っていた。僕は部室で練習着に着替えながら、同級生の彼が制服のままぐっと思いつめた表情で下を見つめていたのを、横目で見ていた。

 

少し小柄な2つ上の先輩が「おーい、辞めるなら今のうちやぞー」と言った。その瞬間、彼は練習着に着替えぬまま部室から飛び出して行った。

 

この日の朝練で、一気に10人近くが部を辞めた。

 

高校1年の頃の話だ。当時、私は名門高校のサッカー部に所属していた。

 

私の高校時代は、スポーツの現場に「科学」と「精神論」が混在する端境期にあったと思う。

 

水は常にグランドの脇に置いてあったし、スポーツトレーナーもいた。栄養士を呼んで食事についての勉強会もあった。

 

一方で、倒れた人間を引きずってまで全員で走ったり、なぜか「手」でボールを奪い合う練習があり、白のシャツが血で真っ赤に染まる選手がいたりした。

 

練習前後のグラウンド整備は絶対に完璧にしないといけない。とんぼをかけていない箇所が数センチあることも許されない。小石はバケツいっぱいに拾う。水たまりをスポンジで吸い取る作業をサボっているのが監督にバレて、着ていたシャツで水を吸い取っては溝に行ってしぼるということをさせられていた選手もいた。

 

毎年ゴールデンウィークは、1日中練習をする「2部練習」が慣例だった。1年生をふるい落とすいわゆる「しごき」の練習だった。紅白戦をすれば負けチームはダッシュ、その後もタイムトライヤルの持久走、練習終わりにクーパー走、サーキットトレーニング。

 

何とか乗り切り、家に帰ってから銭湯に行って湯船につかりながら、「あー、心臓が動いている」としみじみ思ったことを覚えている。

 

スポーツの世界は、暗黙的に実力でお互いを天秤にかけている。それがそのままヒエラルキーにつながることが多い。雑誌に乗るようなスーパースター選手は、学年が下でもある程度は人権がある。一方で、下手な選手は部室でなかなか自分の席すらも与えられない。

 

たまに、たちの悪い先輩がいて、「おまえとおまえ、そしておまえは辞めさせるから」と何の権限もないのに、目をつけられて嫌がらせをしてくることもあった。

 

「死のう」なんてことはよっぽどでないと思わないだろうが、精神的にも体力的にも相当追い詰められることは否めない。

 

そして入学してから約2ヶ月。私と同じように先輩に目をつけられていた同級生が辞めた。

 

最初は一学年で40人ほどいた部員が、卒業する頃には16人になっていた。

 

たまに今でも当時のサッカー部のメンバーと会うことがある。修羅場をくぐり抜けたチームメートとは、しばらく会っていなくても一瞬で打ち解け合える。昔の「しごき」トークは笑い話となり、美談に変わっていく。

 

私もこの辛い3年間を乗りきったこと、ともに戦った仲間が誇りだし、人生哲学の原点にもなっているーー。

 

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今、部活動のあり方の議論が盛んになっている。学校教員の働き方、日大のアメフト部の事件などによって、社会的議論の俎上に載せられている。

 

果たして、部活におけるスパルタ教育は必要か。

 

スパルタの定義が難しいけれど、一つのことにとことん、とことんこだわり続けて、仲間、そして自分と対話を繰り返す活動はかけがえのない経験になる。そういう意味で、自らを厳しく律する環境は有益かもしれない。

 

しかし、理不尽なことを言われたり、限度を超えた「しごき」をされることは本当に必要なのか。思考停止するほどに、精神的にも体力的にも極限まで追い詰める部活動は必要なのか。私は賛同しない。

 

今テレビなどで、荒っぽい言葉遣いをする部活動の顧問と、穏やかな語り口で選手と接する部活動の顧問を対比して報じているのを見かけるが、本質的にはそこではないと思う。

 

部活動を通じて何を教育したいのか。そして、選手が何を感じ、どういう思考プロセスを展開し、どう行動に移しているか。それらに、合理的な論拠と指導法が存在しうるのか。それが最も重要なのではないか。

  

スポーツの世界で指導者側に立つ人間は、得てしてスポーツで成功してきた人が多い。だから、必然とこれまでの旧態依然とした教育を受けて成功した人の声が大きくなる。自らの経験を否定するような発言は心理的に抵抗があるゆえに、スパルタの是非を根本から見直すことにつながりにくい。

 

一方で、途中で挫折した人の声は明るみになることはない。部活動を途中で辞めてしまった人がメディアで発言しているのを私は見たことがない。もっとこれまでのスパルタ的部活動の「負」の側面に光をあてるべきだ。

 

私は部活動のスパルタによって成長したのではなく、サッカーというスポーツを通じて、くどいほどに自らと対話した経験が生きている。

 

「自分はおそらくもうレギュラーにはなれず、華やかな舞台には立てない。どうする?」

 

「パスが10センチずれてしまう。どうしたら精度の高いパスを出し続けられるだろうか?」

 

「仲間が辛そうだ。どう声をかける?」

 

 

仮に理不尽や暴力などによってしか、選手たちに対話を促せないようであれば、指導者としては明らかに勉強不足だ。そして、勉強不足は、勉強する時間がないほど過密な日程で練習をしていることに起因しているようにも思える。

 

「先生たちは情熱を持って、生活の大半を費やして部員たちと向き合ってくれている」。

 

教育にかける先生たちの情熱は、これからの日本の未来を築き上げるために必要不可欠なものである。私もたくさんの「情熱」に育ててもらった。

 

ただ、ひたすら部員と過ごすことに時間をかける以外に、先生が常に学び続けて変容していくことも、また情熱なのではないかと思う。

 

指導者は選手たちに「変われ」と言う。一方で指導者は変われているのか。

 

私は、じっとうつむき、部室を飛び出して行った同級生の姿が忘れられない。

 

 

 

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