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人材育成の観点から「経営」「教育」「メディア」について考えます。

スクープを出す前夜に思うこと

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◆スクープとは◆

スクープといえば、世間に知られていない注目すべきニュースをいち早くつかみ、大きな見出しを付けて大々的に報じるというイメージがあります。時には、多くのメディアが追いかけて報道し、ウェブだとバズったり、週刊誌だと完売したりと、国や自治体を動かすほどの爆発力を持つこともあります。一時期「文春砲」という言葉も流行りましたね。

 

スクープは、どのようにして生まれるのでしょうか。私の経験や研究からすると、きっかけはさまざまです。情報提供、いわゆるタレコミ、記者の取材の中での違和感、資料の読み込み・・・・・・、あらゆるところにネタは眠っています。

 

マスコミ業界では「端緒」と呼びますが、それをつかむことが最も重要だといわれます。ただし、いくらきっかけをつかんだとしても、報道までこぎつけるには多くの関門が存在し、ここには記者の相当な個人技ないしチームワークが求められます。

 

取材で9割までファクトを積み重ねられても、あとの1割がどうしても詰めることができない。そして、ボツになってしまうネタがほとんどです。

 

そんななかで、苦労してスクープを報じるまでこぎつけ、翌日報道することが決まった前夜、記者たちは何を思うのでしょうか。

 

 

◆初めて知る「怖さ」◆

「他社にはどこにも載っていないってよ。よかったな」。入社して1年半が経った頃、私が初めてスクープと呼べる事件記事を書いたとき、デスクにそう言って肩をたたいてもらった記憶があります。

 

確かに報われる気持ちもあり、嬉しかった記憶があります。しかし、それ以上に迫ってきた感情が「怖さ」でした。

 

大丈夫だろうか、本当に間違っていないだろうか、誰かに迷惑がかからないだろうか、どんな影響が出るのだろうか。

 

当時はこのような気持ちが芽生えるのは予想外で、自分の感情に驚きました。

 

基本的にスクープは、公式な発表に基づいて報じるものではありません。本人、もしくは立場のある人、責任者、客観的な証拠などから裏付けをとり、限りなく100%近い確度をもって報じます。しかし、どこまでいっても、限りなく100%近い形なのです。

 

しかも、スクープを出せば続報を求められるのが常なので、次の展開はどうしよう、明日からどう動こう、取材応じてもらえるかな、などといったことも考えねばなりません。喜びに浸っている余裕はありません。

 

本当に少し気持ちが楽になるのは、一連の報道が終結を迎えて、世の中が少し良い方向に向いたかもしれないと思えた時でした。

 

 

◆爆発力をかみしめて◆

最も大きな影響を持つ報道形態としては調査報道があります。社会に存在する不正や腐敗を独自の取材で暴いていくスタイルの報道です。

 

研究の一環で、調査報道によって新聞協会賞を受賞した記者にインタビューをさせてもらった時の言葉が印象的でした。

 

「手放しで、笑顔で喜べる話でもないですよね」。

 

正義は一つではない。片方の正義を立てれば、もう一方の正義は失脚する。正義と正義の相克の狭間で、記者は常に葛藤に苛まれています。

 

スクープではありませんが、私は記事を出す中で、苦情を受けたこともあります。

 

全然ダメな記事だね、何であんなふうに報じたの、あの記事のせいで迷惑している。

 

直接言葉を浴びせられると、やはり辛いものがあります。

 

しかし、こういう声を受け止め、常に怖さを抱えることはある意味、健全なことなのかもしれません。おごりやプライドで筆を滑らせることがあってはいけません。

 

報じた後の爆発力を知るからこそ、慎重を期す。それが送り手に求められる一つの姿勢であると思います。

 

今回は、スクープ前夜の気持ちを振り返り、送り手が抱く怖さについて考えてみました。

 

SNSで何気なく発信することも、大きな影響を持つことがありますね。誰でも発信できる時代だからこそ、どんな人にも慎重さは、ある程度求められるのではないかと思います。

 

それでは、お元気で。

 

 【ジャーナリズム人材育成論】

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