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あの日の記憶。記者として震災に向き合った忘れられない1日

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東日本大震災から6年が経ちます。

 

2011年3月11日の発生当時、私は近畿地方のある新聞社の支局で、沿岸部に押し寄せる津波の警戒をしていました。電車などの交通機関がどれくらい乱れているのか、片っ端から電話をかけて取材をしていました。

 

そんなとき、「明日から現地に行ってくれるか」と支局長に右肩をポンと叩かれ、翌日から現地入りすることになりました。それまで一度も訪れたことのなかった東北の地。まさか自分が、大阪から向かう取材班の第1陣に選ばれるとは思ってもみませんでした。

 

現地の様子についての情報がほとんどなく、会社から現金を渡され、ワゴン車に通信機材、食料を大量に積み込み、数人の記者が車内でぎゅうぎゅう詰めになって、出発しました。

 

しばらくすると、車内のラジオから「福島原発メルトダウン……」と聞こえてきました。何か想像だにしないことが起こっている。「あぁ、俺は生きて帰れるだろうか」と、緊張が走りました。他の記者も同じような心境だったのか、ワゴン車の中は終始、静まり返っていました。

 

3月12日から約10日間、現地に滞在して、取材をしました。

 

取材を終えて戻ってきてから、いくつかの団体で講演をし、ラジオでも取材の話をしました。今も毎年、現地を訪れて被災した方々に取材をして記事を書かせてもらっています。

 

使命感などという大それたことはいえませんが、大災害による悲しみの果てを目にしてきた人間として、二度と同じことを繰り返してはならないと、私はどんな肩書きであっても、文章にして伝え続けるべきだと思っています。

 

震災当時の取材で忘れられない1日があります。その日の日記をここに記すことにします。

 

◆◆◆

地震発生から1週間が経過し、他の記者と入れ替わる形で、被災地での取材を終えることとなり、現地での取材が最終日となった8日目。 

 

「辻、どこか行きたいところあるか」と先輩記者に尋ねられた。「遺体安置所に行かせてください」と答えた。あらゆる分野を取材する記者のなかで、最も辛いのは遺族取材。でも、ここで悲しみの果てを目の当たりにしないで帰るのは、やじ馬の延長で仕事をしているような気がしてならなかった。それだけは嫌だった。普段うだうだ仕事をしている自分だけれども、緊張しながらも志願した。 

 

避難所や現場に向かうチーム取材から離れ、タクシーを拾って、津波により壊滅的な被害を受けた沿岸部の遺体安置所を訪れた。安置所の駐車場は車でいっぱいで、県警と自衛隊の車両も並んでいた。花束を持っている人や、入り口付近で携帯電話を持って誰かに電話している人がたくさんいた。自衛隊が、ひつぎを次々と中へ運んでいた。 

 

建物の中に入ると、様々な大きさのひつぎが100以上並んでいた。多くの人が入り口付近にある掲示板に張り出された紙を食い入るように見つめていた。紙には「頭の後ろにほくろ」「60代男性」など、遺体の特徴が書かれていた。なかには名前が判明している遺体もあった。

 

入り口付近に立っていると、安置所を管理する職員数人がひつぎを抱え、後ろから亡くなった人の家族と見られる人たちが、泥だらけになった服や指輪など、遺留品の入ったビニール袋を持って、出て行った。胸が詰まった。

 

「家族が帰らぬ姿の身内を見つけたばかり。そんな時に見知らぬ自分が声をかけて、ずけずけと話を聞く権利があるのか」。そんな気持ちになった。自ら遺体安置所での取材を志願したものの、入り口で右往左往した。人に声をかけるのに、小一時間かかった。 

 

入り口近くでたばこをくゆらせている男性がいた。「すいません、お話聞かせていただいてよろしいですか」と聞くと、男性は「ええ」と軽く2度頷いた。淡々と言葉が返ってきたが、男性の目の奥は泣いていた。「どなたかお探しですか」と尋ねた。すると男性は、「おふくろと、妻は遺体で見つかった。息子が見つからない」と話した。男性は市街地にある会社で仕事をしていて、家族と連絡がつかなくなった。家族は車で逃げ出している途中に流されたようだと教えてくれた。息子が行方不明で、新しいひつぎが運ばれてくるのを待ち続けていた。 

 

別の男性は入り口のいすに腰をかけていた。男性は実家で一人暮らしをしていた母が行方不明で、安置所で100体以上の遺体をのぞき込んだ。中には「顔をお見せできません」とメモ書きが貼ってある。母が産んでくれた時にできた帝王切開の傷跡を頼りに、ひつぎの中の体をのぞき込んだ。男性だとわかるとふっと息を抜いた。数日前に実家を訪れたという。デジカメで撮った実家の写真を見せてくれた。写真には、泥とがれきしか写っていなかった。「津波が父の形見のカメラも思い出のアルバムも何もかも家ごとさらっていった。母までいなくなったら……」と目を潤ませた。

 

入り口からひつぎの並んでいる奥の方へ進んだ。入り口付近よりもひんやりとしていた。ひつぎは顔の部分の小窓が開いていた。顔はきれいに化粧されていたが、深い傷が残っている顔も見た。大きいひつぎもあれば、小さいひつぎもあった。なかには顔の小窓が開いていないのもあった。亡くなった身内に語りかける家族、ひつぎを抱きかかえて泣き叫ぶ人、花束を添える人が所々にいた。さきほど母を捜すと言っていた男性の姿もあった。「家族一緒に並べてもらったんだよ」。どこからともなく、そんな言葉も耳に入ってきた。静かにゆっくりと歩いた。この場所は、森厳で、崇高で、神聖な場所にすら思えた。これ以上立ち入ってはいけないと思えて、すぐに引き返した。 

 

取材を続けていると、突然女性が詰め寄ってきた。「私たちは家族がどこにいるのかわからないのよ。車のガソリンももうない。何度も安置所を回って、無駄足を運んでいる。できるだけ可能性のある所へ行って、引き上げられた遺体は早く家族のもとに戻してほしい。安置所、遺体の情報をもっと伝えて」と訴えてきた。女性は周りを気にせず、大きな声で私に言った。訴えは切実だった。 

 

夕方、自衛隊によるこの日の遺体の収容が終わり、安置所が閉まりかけていた時、服が入ったビニール袋を持って出ていく白いひげの男性に声をかけた。

 

「息子の嫁が、本日見つかりました。間違いありません」。男性はそう言って、唇をかんだ。「地震が発生した時、何をされていたのですか」と尋ねると、男性は紐を解いたように、話が流れ始めた。 

 

「今、病院にいます。妻はダメだった……」。地震のあった翌日の朝、息子から男性の携帯にメールが届いた。男性は、急いで病院へ向かうと、息子はベッドにいた。夫婦で津波にのまれたことを打ち明けられたという。

 

息子夫婦はコンビニを経営していた。独立したばかりで最近ようやく利益が出始め、業務用の車を買い替えたばかり。地震発生当時も、2人はコンビニ店内で働いていたという。

 

息子夫婦は津波がくる直前まで、レジにいた客の対応をしていた。すると、急に店の前まで波が襲ってきた。2人は店の前に止めていた車の上によじ登ろうとした時、濁流にのまれた。息子は濁流のなか、必死に妻を抱きかかえた。それでも、波の勢いは強く、ついに体が離れてしまった。

 

それから息子は数時間濁流の中にいた。真っ暗のなか、そのまま流され、数キロ先の高速道路のフェンスにたどり着いた時、必死にしがみつき、よじ登った。高速道路には波がきておらず、道路脇にあった非常電話で病院へ連絡して助かった。

 

しかし、妻はそのまま行方不明となっていた。

 

男性は、行方不明となった息子の妻を毎日、コンビニの近くの安置所や警察署を探し回った。そして、やっと今見つかった。

 

ひつぎの横には、泥だらけになったコンビニの制服と名札があった。男性は「眠りから覚めてくるような、きれいな顔をしていた。幼い子どももいる。これからという時に、無念だったろうに……」と、涙を1粒、2粒とこぼし始めた。私は全身が身震いし、胸の奥が熱くなった。ひたすらにペンを走らせることしかできなかった。 

 

ありのままを語ってくれた男性に深々と頭を下げて、遺体安置所を出た。タクシーへ乗り込み、大きく息を吐いた。ずっと窓の外を眺めていたが、視点が定まらなかった。 

 

記者としてどのような姿勢で臨み、被災者、遺族、読者に何を伝えていくべきなのか。身内を失った深い悲しみのなかで、軽々しく見知らぬ自分が話かけ、あえてその悲しみを口に出すよう水を向けることは、人の尊厳を踏みにじることにならないのだろうか。逆に、遺族は記者だからこそ話をしてくれたのかもしれない。そうだとしたら、気持ちをはばかりすぎて、記事の掲載に至らない程度に、中途半端に聞くことの方がもっと失礼なのではないか。答えは見つからなかった。 

 

一眼レフのカメラに目をやった。ついに一度も遺体安置所の外や人々の姿にカメラを向けることができなかった。「記者として失格やな」。そう心の中でつぶやいた。錯綜する価値観の中で、心がずっと揺れ続けていた。

◆◆◆

 

当時、話をしてくださった人々は、ごく普通の幸せな生活を送っていた人々です。災害が起こると、普段当たり前にあると思っていたものが、一瞬にして消えてしまう危険性をはらんでいます。

 

スーパーでモノを買い、食事をして、温かいお風呂に入り、ふかふかの布団で寝る。実はそれは、当たり前ではないのかもしれません。

 

「当たり前」の幸せを守る最大限の準備をしていますか。

 

6年経った今、改めて問いかけたいと思います。

 

そして、今もあの震災で被災した人々が懸命に前を向いて過ごされていることを忘れてはいけないと思います。