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人材育成の観点から「経営」「教育」「メディア」について考えます。

遺族の前で「泣く」か「泣かない」か

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◆最も難しい取材の一つ◆

取材は、森羅万象さまざまなものが対象になりますが、その中でも最も難しい取材の一つが、遺族の取材です。事件、事故、災害などで、身内を亡くされた方に話を聞かせてもらう。極めてナイーブかつセンシティブな取材です。

 

仮に身内を亡くされた親しい人がいたとしても、いや、親しい間柄であればあるほど、根掘り葉掘り話を聞くことは控えるかもしれません。

 

私が新聞社に入る前、大学3年生の頃のことです。就職活動の一環で、新聞記者の座談会に参加したことがありました。座談会には、大阪教育大附属池田小の事件などを担当されていた記者の方々が来ておられました。これまで連日報道される遺族の記事を読み、事件の凄惨さとともに、親の子どもに対する深い愛情が伝わってきて、涙を流しそうになったことが何度もありました。「遺族に寄り添うとは、どういうことなんだろう」。記事越しには読み取れなかった記者の一挙手一投足を知りたい。そんな思いを持って、座談会に臨みました。

 

「遺族の前で涙を流すことはないですね」、「遺族の気持ちは完璧に理解することはできません」。座談会で、冷静沈着に、そして淡々と話される記者を見て、大きな衝撃を受けました。もっと、温かなまなざしを持って、優しい表情で語ってくださるのだろうと、勝手なイメージを持っていたからです。

 

◆遺族取材の葛藤◆

その後、私は実際に記者になり、遺族取材をすることになりました。

 

記者も人間ですから、遺族に声をかけるのは強烈にためらいます。近くを行ったり来たりしながら、おそるおそる声をかけ、取材のお願いをします。

 

そして、中には応じてくださる人がいます。とつとつと話してくださる遺族の方々の言葉をノートに記します。質問をし、答えてもらう。また、質問をし、答えてもらう――。

 

その一連の流れを繰り返していると、「取材」という行為をしている自分と、それを俯瞰しているメタな自分が現れます。

 

 取材をしている自分は、言葉を慎重に選んで質問し、そしてできるだけ相手の思いを汲み取ろうとする。気持ちに近づこうとする。時には、本当に悲しかったり、辛かったりして、手が震えることすらあります。

 

一方、メタな自分は、極めて冷徹です。「この話は、記事なるのか」「少なくともこのへんの話はもっと深堀りするべきじゃないか」「写真は撮らせてもらえるのか」などと、原稿ベースで物を考えています。

 

 

そして、取材中、この取材行為者の自分とメタの自分がバトルを繰り広げるのです。他の取材でも、“二人の自分”は現れますが、とりわけ遺族取材のときはこの二人の対話は盛んになります。

 

「赤の他人のおまえが、人の心に土足で踏み入るのか。人の尊厳をなんだと思っている」(取材行為者)

 

「いやいや、おまえは『記者』として話を聞かせてもらっているんだろ。記事にならないレベルで、中途半端な聞き方をすることが最も失礼な行為だ」(メタ)

 

しかし、いつも唯一絶対の答えは見つかりません。

 

◆なぜ報じるか◆

「こんなときに赤の他人が……」「どういう義理があって……」というマスコミ批判があることは確かです。配慮の足りない行為は、決して許されるものではありません。

 

一方で、遺族の中には、何のしがらみもない第三者の人間だから話したいと思われる方もおられますし、また時の移り変わりとともに話したい、伝えたい、声を上げたいと思われる方もいます。これもまた事実です。

 

 

先日、災害で家族を亡くされた方に話を聞かせていただく機会がありました。

 

「何年経っても、腫れ物に触るように接してこられる。いろいろなことで遠慮されているのがわかる。別に隠したいことは何もないのに」とおっしゃっていました。

 

声を聞くこと、声を上げたい人の助けになること、そして、ともすれば、声の輪を広げて日本社会の制度が変わることに寄与することは、報道に従事する者の一つの役割なのかもしれません。

 

 

◆多くの経験を経て◆

私は遺族取材を経験し、座談会での記者の方々の態度が理解できるようになりました。

 

なぜ、あの時、記者の方々が、冷静沈着で、淡々と話されていたのか。

 

それは、遺族に対する謙虚な姿勢なのだと思います。

 

「私は遺族の気持ちがわかっている」、「私は寄り添っている」。そんな言葉は簡単には使えません。どこまでいっても、当事者にしか理解できないところがある。記者ができることは、遺族が紡ぎだす言葉を冷静に受け止め、世の中に発信することだけなのだと。

 

私は取材で涙を流すことは、なるべく避けるようにしています。感情的になって、判断を誤ってしまうことがあるかもしれないからです。

 

しかし、中には共感を求めている人がいるかもしれません。時には、ともに泣いたり、笑ったり、感情を共有し合うことも必要かもしれません。

 

これは一般化できるものではなく、人、時、場合、価値観によって変わるもので、非常に繊細なレベルで見極めていくことが重要だと考えます。

 

 

 

これからは、立場を変え、研究者として人から話を聞く機会が増えます。遺族取材はないにしても、場合によっては、同じような葛藤を生むことがあるのかなと想像します。科学的検証をすべく、「N」としてカウントできるようにインタビューしきるのか、しないのか。

 

ここにもまた、唯一絶対の答えはないような気がしています。

 

今回は、少し重いテーマについて考えてみました。歯切れの悪い記事なってしまいましたが、人から話を聞き、何かを生み出すことをする以上、避けてはいけない思考のように思います。

 

お元気で。