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人材育成の観点から「経営」「教育」「メディア」について考えます。

核心的な情報へ迫るために3つのタイプの“おじさん”を探せ!

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先だって、大学院の中原先生のレクチャーを聞いていて、人材開発を支える正しい情報収集のポイントの一つとして、キーインフォーマンツ(カギとなる情報提供者たち)を見抜くことの大切さについて学びました。

 

「どのような情報が得られるか」は「誰から聞くかに依存する」ということで、人材開発の担当者が、現場の生声を聞くために、ポイントとなる人について解説されていました。私は少し違う立場、つまり記者として、組織外から、別の組織の内部情報を収集してきた経験を重ね合わせながら聞いていました。そういったなかで、リアルな情報へのアプローチ方法については、近い部分が多いなと興味深く聞いていました。

 

◆キーインフォーマンツを見抜く◆

当事者でない人間が、現場の生の声を把握するのは難しいものです。ググって出てくるはずもありません。核心的な情報へアプローチするために、まず大切なのは「信頼」かと思います。「こいつになら話してもいい」と思ってもらえることが、大前提として必要になるように思います。

 

記者の場合は、「情報を取る」ことが大きな仕事の一つなので、何か噂を聞き、雰囲気を感じ取ったときに、公式発表以外に、そのネタを深掘りしたり、確実に裏が取れたりする人脈がないのは致命的です。

 

しかし、信頼関係構築にかける時間と労力に限りがある中で、どうアプローチしていくのか。それはまさに、キーインフォーマンツを見抜いた上で、人間関係を構築していくことが重要となります。

 

◆3つのインフォーマント◆

記者としてやっていくには、突発的に何か起こったとき(発生型問題)、意識的に何かに取り組みたいとき(探索型問題)、すぐに動けるようにしておくためには、対象となる当事者以外に、常々付き合っておくべき人がいます。

 

それは、3つのタイプのインフォーマントです。

 

①物知りおじさん(別におじさんじゃなくていいけど)

もう、何でも知っている。森羅万象あらゆる話が飛び込んできても、「それ何?」と聞くとすぐに答えてくれる人。まずは全体像、概要を教えてくれる。いわゆる生き字引です。さらには、こういうおじさんは詳細に知っていなくても、「最近こんな話聞いたな」と端緒を提供してくれることもあります。組織内だと、社交的なベテラン層に多いような気がします。こういう人は何気にいるものです。

 

②つながりおじさん(いやほんまにおじさんじゃなくていいけど)

知り合いたい人とつないでくれる。これに関しては、全ての分野についてつながりが深い人はあまりいないため、複数人のつながりおじさんと知り合っていると、ものすごく助かります。例えば、あなたが、今日中に産業廃棄物処理業者の社長に会って、業界の話を聞きたいとしたら、どうしますか。あなたが同業者なら容易に接触できるでしょうが、そうでない人は「どうしよう」と右往左往しますよね。つながりおじさんは、こういう人たちをさらっと紹介してくれるのです。組織においては、各部署でそういう人がいるとありがたいですね。

 

③聞きおじさん(しつこいけど、おじさんじゃなくていい)

ものすごくディープな情報を聞いてくれる人。特にトップシークレット系の情報を提供してくれる人がいると、一気に核心的な情報にまで迫れます。直接会っても、決して教えてくれない人が、聞きおじさんを通すとあっさりと話している。そんなこともあります。こういう人を味方につけるのは至難の業かもしれませんが、じっくりゆっくり付き合っていくと、お互い腹を割った仲になれるかもしれません。組織で言うと、管理者レベルでは、意思決定者の今後の方針や人事情報、現場レベルでは、部下の上司に対する評価、業務実態などの情報になるでしょうか。ちょっとアウトローな感じがしますが、お願いすれば、当事者にこのような情報を聞いてくれる人がいます。

 

 

◆リアルな情報はアナログで取るしかない◆

リアルなドロドロした情報を取ることは、簡単ではありません。本音を隠してうまく立ち振る舞うことは、多くのビジネスパーソンが備えているスキルだからです。これだけ情報があふれている時代でも、ここだけは信頼を築き上げた上でアナログに取るしかありません。しかも、そこに問題の本質が眠っていることが多いようにも思います。核心的な情報は、不断の努力によって掴み取っていくものなのかなと。

 

今日は核心的な情報への迫るための人間関係づくりについて考えてみました。情報は経営資源の一つと言われますが、たとえ記者でなかったとしても、組織内外において情報が取れる人は、やはり優秀なんじゃないかなと、個人的には思います。心の中では、よだれを垂らして「情報がほしい」と思っていたとしても、あからさまに色気を見せてはいけない。絶妙な距離感をつかむ能力も必要だと思います。情報を取るというのは、意外に奥が深いものなのではないでしょうか。

 

お元気で。

記者から取材されて気付いたこと

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◆初めて取材を「受けた」◆

先日、ある雑誌の記者から取材を受けました。いつも取材を「する側」で、「される側」に立つのは初めてだったので、どういう感じなのだろうと、期待と不安が入り交じりながら臨みました。取材テーマは詳しく触れませんが、自らのキャリアなどについて語りました。

 

取材されてみて、一番大きな気付きは、取材された側は予想以上に大きな不安を抱えるということでした。

 

取材を終えてまず初めに思うのは、「正しく伝わったのか、思っていることを伝えきれたのか」という疑問です。これは、取材を承諾した側も「いい記事にしたい」と思っている故の感情だと思うのです。

 

「いい記事を書きたい」と思っている記者に、「いい記事を書いてほしい」と思うから、「きちんと情報を伝えたい」けど、「本当にきちんと伝わったのかな」と、思っていた以上に不安になりました。

 

◆取材対象者の不安を和らげる3つのポイント◆

そこで、記者の立場から考えてみます。そういった取材される側の不安を少しでも和らげるためにできることは、この3つではないかなと思います。

 

1:前もって、記事の方向性と質問する大まかな内容を伝える

まずアポを取る際に、電話でもメールでも、どういう企画で、どんな趣旨で聞くのかを、アウトプットのイメージと合わせて伝える。これは、取材対象者に前もって、話を思い出しておいてもらう効果もあると思います。

当然、当日に話を聞いた中で、聞く内容を変更することもありますが、少なくとも実名か匿名か、写真撮影の有無、所要時間、単独で載るのか誰かと抱き合わせで載るのか、掲載予定日はいつかなど、アウトプットイメージが明確であればあるほど、取材対象者は準備しやすいように思います。

 

2:取材中は「こういうことですよね」と、都度、聞いた内容の確認をする

取材対象者は、基本、聞かれたことを答えるというスタンスです。記者は記事を想定しながら、企画の趣旨に合った部分や面白みを中心に深く掘り下げます。だから、取材対象者が頭で整理している通りに聞かない場合があります。

取材対象者は、なるべく記事なりそうな面白い部分を自分で想像しながら、提供しようとしますが、蛇足になるのではと、躊躇しているところがあります。そういう部分を取りこぼさないためにも、記者は、ある程度聞けたと思ったタイミングで、時系列などを整理しつつ、「こういうことですよね」と事実確認することが好ましいと思います。取材対象者の意図と異なる記事にならないようになることと、語りきっていない内容を補足してもらえるメリットがあります。あくまでも「時間の許す範囲で」ということですが。

 

3:激しく同意する

昔、よく上司から「カメレオンになれ」と言われました。自分の相性のいい相手だけ話が聞けても、プロではないと。相性の悪い相手でも、自分の取材スタイルを柔軟に変えながら聞けるようになれと言われました。これについては少し思うところはありますが、あながち全て間違っているというわけでもないように思います。

まずは、取材対象者に「この人は自分のことを理解してくれる人だ」と思ってもらうことが極めて重要だと思いました。心理的安全を担保しないと、本音が語りにくい。記事にするにあたって、「なぜ」と繰り返し尋ねるのは、記者の宿命だとしても、問い詰めるように聞くのは、取材対象者を身構えさせてしまうかもしれない。

大学院の研究合宿で知り合ったフリーライターの方が、「大きく共感することが取材のコツだ」というようなことをおっしゃっていましたが、取材されてみてこれはかなり大事だと思いました。取材の目的は議論することではないので、仮に自分と意見が異なる人であったとしても、共感する。この考え方はビジネスで言う「コーチング」に近いのかもしれません。権力組織の取材など、問いつめないといけない取材については別問題ですけどね。

 

以上です。

 

◆一期一会を真剣勝負で◆

 今回は、取材される側の視点から、取材手法について考えてみました。私は以上のポイントは何気なく行っていましたが、すごく重要なことなんだなと痛感しました。もう何千人と取材してきて、「この期に及んで……」感はありますが^^; 取材する記者は、「日々の仕事の一つ」。しかし、取材される側は「人生で一度」かもしれない。記者は取材対象者に大きな心的負担をかけていることを自覚しながら、感謝の念を持ちつつ、できるだけ毎度の一期一会の空間を真剣勝負で臨みたいものです。自戒をこめて、そう思います。

 

今回の取材では、記者さんは和やかな雰囲気を作ってくださり、すごく心地よく話をさせていただきました。私なんぞの拙い話を熱心に聞いてくださり、心から感謝したいと思います。少しでも助けになっていればいいのですが……。

 

お元気で。

対話によって真実は導き出される!?

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◆見たまま、聞いたままは真実か◆

「編集は情報を都合良く改変するので悪だ、聞いたままを伝えることが尊し」というようなニュアンスの言葉を耳にすることがあります。編集が介入することは、純粋な情報が伝わらないのではという、情報の受け手による懸念の表れのように思います。

 

確かに、昨今、さまざまな局面で捏造や誤報の問題が取り沙汰され、情報の伝え手の資質が問われています。恣意的にメッセージをねじ曲げることは決して許されるものではありません。また、会見などで話された内容の全文を公開する振興メディアも勃興し、ピュアな情報が求められている時代の風潮があるようです。

 

ただ、ここで気をつけたいのは、「他者が介入していない情報こそが真実である」と過度に思い込むことです。記者や編集者が介入することで、真実だった情報が崩されていると過敏に反応し、「記者や編集者はいらねーよ」とする主張には、少し違和感を覚えます。

 

果たして、見たまま、聞いたままの情報は、真実なのでしょうか。

 

◆「助け舟」を出しながら対話して情報を得る◆

例えば、高校野球を引退した後、大学に現役合格した生徒にインタビューをしたとします。

 

「ずっと野球ばかりしてきました」(生徒)

 

「引退してからは、すごく勉強も頑張ってたんじゃない?」(記者)

 

「はい、めちゃくちゃ頑張りました」(生徒)

 

「なぜ頑張れたの?」(記者)

 

「うーん……」(生徒)

 

「野球の力が生かせた?」(記者)

 

「はい、それはありますね!」(生徒)

 

「どんなところがどう生かせた?」(記者)

 

「なんというか、戦っている感じが似ているというか……」(生徒)

 

「競争のなかで頑張って、結果が出たときの面白さとか似ているのかなぁ」(記者)

 

「そうです!それです。勉強にも同じ勝つ喜びがあるから頑張れたんです」(生徒)

 

稚拙な例だったかもしれませんが、このようにじっくりと対話を続けながら、時には言葉の「助け舟」を出し、相手の心の深奥に迫っていくことで、徐々に分かっていくこともあります。

 

 

◆何度も繰り返し問いかけて情報を得る◆

また、昔、こんなことがありました。

 

私は連載初回となる元旦の記事を担当することとなりました。そこで、子どもたちに森の大切さを伝える教室を開き、植林活動を続ける「森を守るおじいさん」を取り上げました。

 

会社から車で約3時間かけて、山奥のおじいさん自宅へ取材に出かけました。地域面一面を丸々使った特大の記事ということもあって、2~3時間、とことん話を聞き、さらには昔の写真も引っ張り出してきてもらって、あれこれと取材をしました。

 

しかし、おじいさんが、なぜそこまで山を守るのかということがわかりませんでした。

 

その疑問が解消されず、普通なら1日で取材を終わらせるところを、5日間通いました。

 

多少言い方を換えるなどしながら、何度も何度も同じ趣旨の質問を繰り返しました。すると、5日目におじいさんが、「昔、大雨で裏の山が土砂崩れになって、母屋がつぶれてよぉー。それから森が弱ってると思ったんやわ」とさらっとつぶやきました。

 

僕は心の中で「それやん!」と思いました。

 

おじいさんはあえて隠していたのではありません。初めから包み隠さず全てを打ち明けてくれていました。当然ですが、ほとんどの人は、普段から意識的に人生の振り返りをしているわけではないので、思っていることを言葉にしたり、自覚していなかったりすることが多いのです。

 

 

「真実は対話によって導き出される」

 

僕が記者の仕事を通じて学んだことです。表出されている見たまま、聞いたままの情報だけでは分からないことは多々あります。

 

記者の仕事は、人から話を聞くことに加えて、人から真意を引き出すことでもあります。とりわけ、相手が言いたくない話を聞く時は、ほとんどが引き出す作業になります。

 

アンテナを張り巡らせながら、対話を繰り返し、言葉と言葉、または、事実と事実をつなぐことも、記者の役割であると思うのです。

 

僕は「核心はここだ」と思ったとき、少し時間を置きながら何度も同じ質問をします。質問をされた方は、はじめは答えられなくても、別の事柄を話しているうちにその質問が頭で反芻され、よりよく言語化してもらえることがあるからです。

 

その人が語ること、目に見えること、そのまま受け止めることも大切ですが、時には心に芽生えた疑問が解消されるまで、あえてちょっと粘ってみる。もしかすると、その人にしか語れない奥深い言葉が出てくるかもしれません。

 

相手の言葉に心を寄せること、相手の言葉を疑うこと、この相反する行為を絶妙なバランスでこなしていくことが、真実に迫る一つのコツかもしれません。

 

今回は、ピュアな情報を求める時代の風潮から、記者、編集者が介入することの意義について考えてみました。伝え手には言うまでもなく、極めて高い倫理観が求められます。私利私欲を差し挟むことなく、取材対象者にも、情報の受け手にも、配慮せねばなりません。それを担保した上で、聞くことも書くことも続けていかなければならないと思います。自戒を込めて。

 

お元気で。

組織の専門集団から離れて気付くこと

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◆取材は1対1がやりやすい◆

本職は編集の仕事なのですが、今でも時々、ライターとして取材をしています。新聞社時代と違って面白いなと感じることは、取材をしたことがない人に同席してもらっていることです。

 

特別な場合を除いて、取材が一番しやすい環境は1対1です。自分の知りたいことをスムーズに聞き出すことができますし、相手も周囲を気にすることなく、気兼ねなく話してくれるからです。複数の取材者がいると、それぞれが思い思いに話を聞くことになるため、論点がぶれてしまう恐れがあります。

 

記者会見では、そういうこともあってか、多くの記者は会見が終わってから、取材対象者をつかまえて、補足取材をするのが通例になっています。

 

 

◆取材に同席してもらう3つの理由◆

私は取材したことのない人に同席してもらって、あえて複数人で聞くようにしています。

 

そこには3つの理由があります。

 

ラポール(相互の信頼関係)を築く時間を短縮化する

よりよい質の記事を書くために、最大限のエネルギーを使いたいので、同席してもらうことに、職業体験的な側面を持たせる意図はありません。ですから、同席してもらう人は、取材対象者とある程度関係のある人です。顔見知りの人を連れて行くことで、相手の警戒心をとくための時間を短縮化することができます。その分、本題の部分に割く時間が増えます。

 

②気付かない視点から聞いてもらうことで、通り一遍の原稿にならないようにする

取材慣れしてくると、聞き方がパターン化してきて、一定の原稿は書けたとしても、思わぬところで大事なポイントを落としてしまう恐れがあります。複数の取材者になると論点がぶれやすい反面、「なるほど、そういう点も聞いておくべきだな」という気付きがあります。

 

③同席者の対話によって、スキルを言語化できる

自分にとっては、これが一番大きな要素です。取材未経験者が持つ関心ごとは、「人から話を聞く」という仕事とは何ぞやということです。人から話を聞くなんて、日常活動の中で行われるいたって普通の行為。「プロって何だ」と思っているわけです。

 

 

◆同席者との対話で学ぶこと◆

ここでは③に焦点を当てます。

 

例えば、同席者と取材の前後でこういう会話が繰り広げられます。

 

「取材では、どういう点に気をつけて聞いているのですか」(同席者)

 

「基本的に場面を作り出すことです。ここだと思った部分に関しては、気温とか、においとか、天気とか極めて細かいレベルまで聞くようにしています」(自分)

 

「へぇ、どうやって場面を選んでいるんですか」(同席者)

 

「ますは、一番印象に残っているつらかったこと、面白かったことを聞きます。記憶に強く残っている場面は、その人の人生の波になる部分が多いからです。あとは、『今』を聞きますかね」(自分)

 

「へぇ、『今』って……」

 

という具合です。

  

基本「へぇ」と返ってくるのですが、実は、僕も自分で言いながら「へぇ、自分ってこんなこと考えているんだ」と思っています。説明のなかには、これまで指導してくださった上司や先輩の請け売りもあるのですが、普段改めて確認することないスキルを言語化する行為は自分にとってはかなり新鮮です。

 

さらに、言語化することによって、内省が促されます。 

 

「意識しているポイントを今、伝えたけど、もっと工夫できるポイントなかったかな。このやり方、合っているんかな」などといったことを考え出します。

 

実践に基づく持論は、「こうだ」とかっちり決まっていないために、常に試行錯誤を続けるものだと思っています。したがって、ぐらぐらとしていて、不安定な部分が多い反面、果てしなく伸びしろが広がっていく可能性を秘めているものとも考えられます。

 

 

◆専門集団から離れて「なぜ」を問い直す◆

記者という専門集団のなかにいると、「原稿には『声』が必要だ」とか、「あんこ(話の核となる部分)がない」とか、「本記とサイド書き分けで」とか、「この情報には少なくとも2本の筋が取れないと載せられないな」とか、当たり前のように会話が繰り広げられますが、改めてそれは「なぜ」と問い直す機会はほとんどありません。

 

しかし、いったん専門集団を離れると、この「なぜ」がいっぱい出てくるのです。実はここにスキル改善の余地が眠っているかもしれない。すっと答えられないものは、やはりロジカルではないはず。専門集団であればあるほど、この「なぜ」と問い直す場を定期的に持った方がいいのではないかなと思います。

 

私の研究室の同級生(斉藤さん)は、職業上のスキルを生かしてボランティア活動をする「プロボノ」が、どのような能力強化につながるのかという研究をされています(http://blog.livedoor.jp/mitsuhiro_saito_lab/)。

 

僕は記者という専門集団から離れて、取材をすることで新たな学びがありました。どんな職業でも、離れてみて気付くことがあるように思います。これから、新たな知見が生まれることが楽しみです。

 

お元気で。

 

遺族の前で「泣く」か「泣かない」か

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◆最も難しい取材の一つ◆

取材は、森羅万象さまざまなものが対象になりますが、その中でも最も難しい取材の一つが、遺族の取材です。事件、事故、災害などで、身内を亡くされた方に話を聞かせてもらう。極めてナイーブかつセンシティブな取材です。

 

仮に身内を亡くされた親しい人がいたとしても、いや、親しい間柄であればあるほど、根掘り葉掘り話を聞くことは控えるかもしれません。

 

私が新聞社に入る前、大学3年生の頃のことです。就職活動の一環で、新聞記者の座談会に参加したことがありました。座談会には、大阪教育大附属池田小の事件などを担当されていた記者の方々が来ておられました。これまで連日報道される遺族の記事を読み、事件の凄惨さとともに、親の子どもに対する深い愛情が伝わってきて、涙を流しそうになったことが何度もありました。「遺族に寄り添うとは、どういうことなんだろう」。記事越しには読み取れなかった記者の一挙手一投足を知りたい。そんな思いを持って、座談会に臨みました。

 

「遺族の前で涙を流すことはないですね」、「遺族の気持ちは完璧に理解することはできません」。座談会で、冷静沈着に、そして淡々と話される記者を見て、大きな衝撃を受けました。もっと、温かなまなざしを持って、優しい表情で語ってくださるのだろうと、勝手なイメージを持っていたからです。

 

◆遺族取材の葛藤◆

その後、私は実際に記者になり、遺族取材をすることになりました。

 

記者も人間ですから、遺族に声をかけるのは強烈にためらいます。近くを行ったり来たりしながら、おそるおそる声をかけ、取材のお願いをします。

 

そして、中には応じてくださる人がいます。とつとつと話してくださる遺族の方々の言葉をノートに記します。質問をし、答えてもらう。また、質問をし、答えてもらう――。

 

その一連の流れを繰り返していると、「取材」という行為をしている自分と、それを俯瞰しているメタな自分が現れます。

 

 取材をしている自分は、言葉を慎重に選んで質問し、そしてできるだけ相手の思いを汲み取ろうとする。気持ちに近づこうとする。時には、本当に悲しかったり、辛かったりして、手が震えることすらあります。

 

一方、メタな自分は、極めて冷徹です。「この話は、記事なるのか」「少なくともこのへんの話はもっと深堀りするべきじゃないか」「写真は撮らせてもらえるのか」などと、原稿ベースで物を考えています。

 

 

そして、取材中、この取材行為者の自分とメタの自分がバトルを繰り広げるのです。他の取材でも、“二人の自分”は現れますが、とりわけ遺族取材のときはこの二人の対話は盛んになります。

 

「赤の他人のおまえが、人の心に土足で踏み入るのか。人の尊厳をなんだと思っている」(取材行為者)

 

「いやいや、おまえは『記者』として話を聞かせてもらっているんだろ。記事にならないレベルで、中途半端な聞き方をすることが最も失礼な行為だ」(メタ)

 

しかし、いつも唯一絶対の答えは見つかりません。

 

◆なぜ報じるか◆

「こんなときに赤の他人が……」「どういう義理があって……」というマスコミ批判があることは確かです。配慮の足りない行為は、決して許されるものではありません。

 

一方で、遺族の中には、何のしがらみもない第三者の人間だから話したいと思われる方もおられますし、また時の移り変わりとともに話したい、伝えたい、声を上げたいと思われる方もいます。これもまた事実です。

 

 

先日、災害で家族を亡くされた方に話を聞かせていただく機会がありました。

 

「何年経っても、腫れ物に触るように接してこられる。いろいろなことで遠慮されているのがわかる。別に隠したいことは何もないのに」とおっしゃっていました。

 

声を聞くこと、声を上げたい人の助けになること、そして、ともすれば、声の輪を広げて日本社会の制度が変わることに寄与することは、報道に従事する者の一つの役割なのかもしれません。

 

 

◆多くの経験を経て◆

私は遺族取材を経験し、座談会での記者の方々の態度が理解できるようになりました。

 

なぜ、あの時、記者の方々が、冷静沈着で、淡々と話されていたのか。

 

それは、遺族に対する謙虚な姿勢なのだと思います。

 

「私は遺族の気持ちがわかっている」、「私は寄り添っている」。そんな言葉は簡単には使えません。どこまでいっても、当事者にしか理解できないところがある。記者ができることは、遺族が紡ぎだす言葉を冷静に受け止め、世の中に発信することだけなのだと。

 

私は取材で涙を流すことは、なるべく避けるようにしています。感情的になって、判断を誤ってしまうことがあるかもしれないからです。

 

しかし、中には共感を求めている人がいるかもしれません。時には、ともに泣いたり、笑ったり、感情を共有し合うことも必要かもしれません。

 

これは一般化できるものではなく、人、時、場合、価値観によって変わるもので、非常に繊細なレベルで見極めていくことが重要だと考えます。

 

 

 

これからは、立場を変え、研究者として人から話を聞く機会が増えます。遺族取材はないにしても、場合によっては、同じような葛藤を生むことがあるのかなと想像します。科学的検証をすべく、「N」としてカウントできるようにインタビューしきるのか、しないのか。

 

ここにもまた、唯一絶対の答えはないような気がしています。

 

今回は、少し重いテーマについて考えてみました。歯切れの悪い記事なってしまいましたが、人から話を聞き、何かを生み出すことをする以上、避けてはいけない思考のように思います。

 

お元気で。

転職して「スキルを失う怖さ」を打ち消してくれた瞬間

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◆期待より不安が大きかった転職◆

2013年に転職してからは、公私ともにほとんどの環境が変わりました。暮らす場所も、人間関係も、職場もほぼ全部です。まさにアイデンティティの一つにもなっていた記者生活を離れたことは、大きな大きな転機となりました。

 

新しい環境に身を置いたとき、「新しい能力を身につける期待」はあるのですが、それよりも「培ってきたものを失う怖さ」が予想以上に大きいことに気が付きました。時に、人と対話したり、文章を書いたりする力が落ちているのではと、不安になることがあります。

 

そういうなか、39歳まで現役を続けた「鉄人Jリーガー」に取材させてもらう機会がありました。心に決めていたのは「なぜ39歳まで現役でいられたのか」をとことん聞き出そうということでした。

 

◆Jリーガーに学ぶ「キャリアサバイバル」◆

その選手は、長く現役でい続けるには「チームに合わせるプレーをすること」と語ってくれました。ころころと監督が変わるプロの世界で渡り歩くには、チームのなかで自分を生かす術を見出すことが重要だといいます。外国人監督が就任すると、その監督の言語を習得することすらいとわないといった徹底ぶりだったそうです。

 

僕はおこがましくも、自分の人生を重ね合わせるように、「今まで培ってきたプレースタイルを捨てることに怖さはないのですか」と聞きました。すると、「いや、捨てるということではないです。どちらかというと、『積み重ねる』というイメージです。今までのスタイルがあって、さらに引き出しを増やしていくということですかね」と答えてくれました。

 

この「積み重ねる」という言葉が、転職をして間もない僕にとって、大きな活力を与えてくれました。 

 

「自分のスタイルに固執することは、かえって自分の新たな可能性を狭めていることにつながっている」。そういう哲学を持つその選手は、今、指導者となり、教え子にはあえて不本意なこともさせ、「殻を破ること」を経験してもらうようにしているそうです。

 

まさに、これは「キャリア・サバイバル」の考え方だと思いました。職業人生のなかでうまく生き抜いていく。変化を前向きに捉えることの重要性を教えてもらいました。

 

◆前向きになって気付くこと◆

そうやって変化を受け入れながら仕事をしていると、新しい気付きが生まれました。例えば、僕は「飛び込み仕事に強い」ことを転職して初めて知りました。記者時代、日々、いつ発生するかわからない事件に対応していると、振られた事件をすぐに処理するという習慣が身についていました。

 

だから、雑務などを振られても、即座にこなす癖がついており、上司からは「仕事速いな」と一定の評価を得ることができました。やっている仕事内容は全然違うけれども、「結構、前の仕事のスキルが使えるな」と、引き出しが増える手ごたえを感じた瞬間がありました。

 

 

過去の経験にとらわれないよう、いったん学習したことを、意識的に忘れて、学び直しをすることを「アンラーニング」というそうです。日本語では「学習棄却」と訳されるそうですが、「捨てる」というニュアンスが強くて、個人的にはややネガティブな印象を持ってしまいます。

 

もし、鉄人Jリーガーのような哲学を適用するならば、「アップデートラーニング」とか「パイルアップラーニング」という呼称で、「学習更新」「積み重ね学習」みたいな感じの日本語にすると、もっとすっと受け入れられるのになぁと思ったり。

 

言葉にすら抵抗を持ってしまっている時点で、僕はもしかして「アンラーニング」できていない?のかもしれませんけどね。

 

過去を否定せずとも、変わることをもっと前向きに捉えたいと思います。

 

 

お元気で。

世の中には2つのタイプの「天才」がいる!?

取材で人の話を聞いたり、ドキュメンタリー番組を見たりしていると、最近、思うことがあります。それは、いわゆるその道の「天才」と呼ばれる人には、2つのタイプがいるのではないかということです。

 

暗黙知型「天才」◆

1:感覚が優れた暗黙知

「ここで、シュッと、そして、ここで、パッとやるんですよ」。元巨人軍の長嶋茂雄さんの指導などを思い浮かべると、わかりやすいですが、言語として精緻な表現を使わない人がいます。メキシコ五輪の時の日本代表で、史上最高のストライカーと呼ばれる釜本邦茂さんが、選手を指導される様子を取材した時も同じような感覚を覚えました。

 

この前も、世界的に有名な指揮者・小澤征爾さんが、テレビでインタビューを受けていて、一言一句は覚えていませんが、小澤さんが「楽譜からベートーベンの思いを汲み取る」というようなことをおっしゃったとき、キャスターが「私からすると、楽譜は『ド』は『ド』という音符の並びでしかないですが、どのように汲み取るのですか」などという質問を投げかけました。すると、少し黙った後、「そんなこと聞かれたことねぇなぁ」などと言って、別の話を切り出されていました。その瞬間、「この人、天才だ」と思わせられました。

 

言葉にできないけれども(もしかすると、あえてしていない部分もあるかもしれませんが)、卓越な技能を持ち合わせている。こういう人たちの感覚って、どうなっているんだろうとすごく興味を持ちます。

 

暗黙知」(Tacit Knowing)という概念があります。主観的で言語化できない知識のことで、この概念を提唱した哲学者のマイケル・ポラニーによると、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」(マイケル・ポラニー著、伊藤敬三訳『暗黙値の次元』2002年紀伊國屋書店P15)そうです。人の顔を何千と見分けられるが、どのようにして認知して、区別するかということを普通は語ることができないという事実を一例として挙げ、暗黙知について説明しています。

 

技能に関しても、「我々は、筋肉の個々の要素的な諸活動から、それらの諸活動が共通に奉仕している目標の実現へと、注目するのである。したがって、ふつう我々は、これらの要素的な諸活動を明確に語ることはできない」(同P24)としています。

 

つまり、優れた感覚や技能について、細部にわたっては、すべて言語として語れるものではないということです。したがって、このタイプの「天才」の卓越した技能は、暗黙知によるところが大きいのではと思います。

 

◆論理型「天才」◆

2:「全てのものに理由がある」とする論理型

一方で、「全てのものには理由がある」と、その道を理論化して極めているタイプの人がいます。

 

例えば、日本一の天ぷら職人と言われている早乙女哲哉さんは、一つの天ぷらを揚げるのに、秒刻みで調理の工程を管理しているそうです。極めて論理的に味の追究をしている人のようです。また、落語家の桂枝雀さんも、「笑い」を類型化し、論理的に検証しようとした人として有名です。

 

人が能力を高めていく過程で、経験を積み重ね、ふとした瞬間「あぁ、これってこういうことだな」みたいなコツをつかむ瞬間が、多くの人にはあると思います。論理型の天才はこの作業を、かなり意識的に行っているのかなぁなんて思います。

 

組織行動学者のデーヴィット・コルブは、「経験学習サイクル」(1984)を提唱しました。人は、「行動」—「経験」—「省察」—「概念化」というサイクルを回すことで、どんどん学びが深まっていくというものです。経験を経験としてとどめるのではなく、これはどういうことだろうと、うまくいったことと、うまくいかなかったことを振り返り、「こういうことだろう」と概念化することが重要だそうです。

 

このタイプの天才は、経験学習サイクルをがんがん回していて、概念化するのがうまい人なのかなと思います。何十年と経験を積み重ね、たくさん概念化できているから、絶妙な味や極めきった技を、論理的に説明できるのではと思います。

 

◆疑問点◆

ただ、じゃあ、言語化できていない人は、経験学習サイクルを回していないのかという疑問も残りますし、反対に、概念化できている人は本当に言語で説明できているのかという疑問もあります。そもそも、この2つのタイプの天才って、熟達のプロセスは異なるのかという問題もあります。もしかすると、全く違う考え方をあてはめないといけないのかもしれません。

 

一体、この2つのタイプの天才は、何が違って、話せたり、話せなかったりするのでしょうか。単に口下手か否かという問題ではない気がします。頭の中をのぞいてみたい>_<

 

取材やテレビで、その道を極めた人たちの話を聞く中で、何となくそんなことを考えていました。勉強不足なだけで、すでにそういった知見は生まれているかもしれません。さらに知識習得に励みたいと思います。

 

お元気で。